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錦町の文化財

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◆桑原家住宅(国指定重要文化財)

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 桑原家住宅は、熊本県下に分布する伝統的な平屋の曲屋(寄棟造り茅葺き)です。主要部は「ざしき」以下四室と土間が鍵の手になっていますが、「ざしき」等の三室と「だいどころ」「土間」の二室は桁が別々に回り、二つの建物の旨を直角につないだL型の外観となっています。建築年代は、形式手法から19世紀中頃といわれています。 


◆丸目蔵人佐の墓(町指定有形文化財)

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 一武地区の切原野の堂山にある、剣豪丸目蔵人佐の墓です。晩年、鉄斎と号した蔵人佐は、相良氏から与えられた切原野の土地を開いて農耕にいそしみ、90歳でこの世を去るまで晴耕雨読に明け暮れたそうです。法名を雲山春龍居士といいます。

 

◆臼太鼓踊り(郷土芸能)

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 球磨人吉地方には各地にこの種の踊りがあります。言い伝えによると相良藩主が武道奨励の目的で始めたもので、源平合戦をかたどるとも言われています。頭一人、関二人、脇二人の基本構成に、垣五人などが加わり、太鼓、鐘を鳴らして乱舞する様は勇壮にして華麗です。 


◆新宮寺六観音(町指定有形文化財)

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 新宮寺六観音は、天正4年の火災により一度は焼失しました。そこで、相良家18代義陽公が大旦那清原頼忠に六観音を彫像寄進するよう発願。大隅の仏師回月が天正5年に十一面観音、翌6年に如意輪観音を、仏師日高民部藤原秀永が同6年に千手観音をそれぞれ寄進しました。さらに、同7年に聖観音(作者不明)、仏師金策が天正14年に準提観音が納められ、寛永7年、球磨の住人上村の尾形大学が最後の一体である馬頭観音を彫像寄進しています。年代を追ってそれぞれ違った仏師たちが六観音を彫像したところが大変貴重だと言われています。

 

◆土屋観音(町指定有形文化財)

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 文安5年(1448)上相良の頼観・頼仙兄弟が人吉城を占拠しました。そのとき、人吉城主尭頼公(10代)は永国寺の大蟲超虎和尚を伴って大隅菱刈に逃げたのですが、尭頼公は逃げ延びた先で急死してしまいました。そこで、大蟲超虎和尚はまもなく帰国し、一武の東方樅木園に草庵を結び、その後、土屋小槇山の麓に一院を建て一乗寺(一城寺)と名付けました。一乗寺は明治維新後廃寺となり、寺院には現在の観音堂と古棟群が残っています。

 観音堂は相良33観音めぐりの31番札所であり、堂内は鎌倉時代の木造聖観音座像(像高56.8センチ)と、平安末期の木造地蔵菩薩立像(49.3センチ)が祭られています。また、観音像の後ろ丘陵は中世の土屋城址です。  


◆木造釈迦如来坐像(県指定重要文化財)

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 荒田観音堂内にあり、県下で三例目の墨書きで胎内腹部前面に「奉造立釈迦如来像天台僧林与 保延7年2月14日」の銘文が書かれています。本像は彫眼、彩色像で像高86.5cm。カツラ材一木造で、頭、体部は耳の後方で前後二材に割矧ぎ、膝前は横一材を寄せてあります。平安末期に造られた本像は、表情が穏やかで端正な気品を見ることができ、年代の重みが十分うかがえます。 


◆京ヶ峰横穴群(県指定史跡)

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 6世紀中頃につくられたといわれている、球磨川の本流に川辺川が合流する南の阿蘇溶岩(黒岩)の崖面にある古墳群です。横穴古墳とは、死者を祭るために高い崖の途中に穴を掘り部屋を設けたもので、入り口の回りに靱(ゆき=矢を入れるもの)や、たて、車輪模様、さらに人物を描いた装飾があります。

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